プノンペン


プノンペン

プノンペンはカンボジア王国(通称:カンボジア)の首都です。カンボジアの行政・文化・経済の中心地となっています。プノンペンはフランス統治下にあった時代は「東洋のパリ」と言われていたほどで、今でも街の景観の美しさは残っています。

プノンペンの名前は、ペン夫人の丘という意味があります。
昔、仏教に信仰心の厚いペン夫人が川を流れてきた仏像を拾いました。その仏像を近くの丘に祠を作って祀りました。その丘を、クメール語で「ペン夫人の丘」という意味のプノンペンと名付けられ、そのあと街の名前へとなりました。
ちなみに、その丘は今でもありますが、名前はワット・プノンと名付けられています。そこには、ペン夫人の像や仏塔があります。


地理

プノンペンはカンボジアの南部にありメコン川・トンレサップ川・パサック川の合流点に位置しています。


歴史

プノンペンの歴史で忘れてはならないことがあります。
1970年にノン・ノルによる軍事クーデターによって、アメリカ軍がカンボジアに軍事介入をしました。そして共産勢力を攻撃するために農村部に爆撃を開始しました。そのことになり、農業ができなくなった農民たちが難民となり、アメリカからの配給(空輸食料)を求めてプノンペンに集結しました。ロン・ノル政権末期の1975年頃にはプノンペンの人口は200万人を超えていたと言われています。
1975年4月17日にクメール・ルージュによって、プノンペンは陥落されました。
プノンペンを陥落したクメール・ルージュは、国王からも支持されていたこともあり、最初は市民に歓迎ムードで迎えられました。しかし、市民に対して虚言を吐いて騙し、暴力を持って強制的にプノンペンから地方へと放逐したことにより嫌われるようになりました。この過程で抵抗するものはクメール・ルージュにより射殺されました。病人や老人、子供や妊婦などを含めて数万人以上が犠牲になったと言われています。
1979年1月7日のベトナム軍とカンプチア民族救国戦線(反ポル・ポト派)によってプノンペンが陥落されるまでの間に、一時期200万人以上いた人口が5000人まで減少したと言われています。
1979年に陥落するまでの間に、キエンスワイに強制収容所が設けられました。この強制収容所では、ロンノル時代の公務員や軍人、法律家などの知識人だけでなくクメール・ルージュの幹部までがスパイ容疑で収容され、拷問された挙句にキリング・フィールドにて惨殺されました。
プノンペン近郊のチェンエクにあるキリング・フィールドが有名ですが、このキリング・フィールドはカンボジア全国各地に存在し同様のことが行われていました。


交通

プノンペンはカンボジアの交通の要所となっています。

空港

カンボジア最大の国際空港であるプノンペン国際空港があります。全日空による成田ープノンペン間の直行便も運行されています。

長距離バス

プノンペンにはタイやベトナムへと向かう国境バスのバス会社が多く集まっており、毎日の何台ものバスがタイ(バンコク)・ベトナム(ホーチミン)へと向かっています。
また国内の長距離バスの発着地点にもなっており、シェムリアップやシハヌークビルをはじめとした観光地はもちろんのこと。各地へと運行しています。

鉄道

タイへの国際列車が運行されていた時期もありましたが、現在は廃線となっています。
将来的には、タイとの国際列車が再開されるという話もあります。

トゥクトゥク

市内の交通手段として重宝されています。


観光

ワットプノン

プノンペンの語源と成っている『ペン夫人の丘』のこと。今は寺院が建てられ、夜にはライトアップされています。

キリング・フィールド

ポル・ポト政権下のカンボジアで、大量虐殺が行われた刑場跡のことで、プノンペン近郊のところが有名です。

トゥール・スレン

ポルポト政権下の政治犯収容所です。トゥール・スレンというのは、暗号名です。


飲食店

プノンペン市内には、日本食レストランを見かけます。またラーメン屋だけでなく日本そばのお店もあります。


飲食店の仕事情報

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ホテル情報

プノンペンはカンボジアの首都になります。

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